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第3話 中学生活について

更新日:1月25日

覚えてもらうにはストーリがあると理解しやすい。 その人の人となりを知るには、生い立ちも重要。 その観点から人生のストーリーを書いております。

本当に伝えたいことはこんなことではないのですが、これもそれに繋がる大事なコンテンツだと思って書きます。


中学校時代になりますが、1年生の5月後半から不登校になりました。 理由は色々ありますが。


勉強が好きでなかった。 サッカー部に所属したがケガをしてしまった。 馬鹿な教師と生徒に幻滅し、ここは自分の居場所ではないと感じた。 学校に通う意味を見出せなかった。


簡単に表現をするとこんな感じ。

勉強が好きでなかったのは大した問題ではなく、サッカーでケガをしたのは結構大きな衝撃だった。 それと同じくらいの衝撃は、国語の若い教師が忘れ物をした生徒を壁に立たせて、罰と称し腎臓パンチと言いながら背中を殴っていたこと。

殴られた生徒はもちろん痛がるが、見ていた周りの生徒は馬鹿笑い。 痛がる姿を見て何が楽しいのか自分には理解が出来なかった。

みんな馬鹿だなと思ったのもそうだが、良いのか悪いのか分からないが、自分は人と違うんだと何となく感じた距離感を今でも思い出す。


こんな感じで楽しいことも特にないため、学校に行く意味を見いだせず登校拒否を開始。

親には理由も言わず学校に行かないと強硬手段に出たものだから、それはもう大変だった。

母親も泣かせたし、父親にも何度も腕を引っ張られ車に無理やり乗せられ学校に連れて行かれた。 それでも車が消えたらすぐ帰るということを繰り返し、次第に何も言われなくなった。 これは悪い意味ではなく、自分の考えを理解しようとしてくれた、尊重してくれた、見守ってくれたことだった。


ただ、時には有名なお祓い人の所に連れられ、お経?を唱えられ儀式をされたこともある笑 申し訳ないが何にも効き目はなかったと思う。


また、誰に聞いたか覚えていないが、両親が不登校の研究をしている大学の先生に相談に行き、自分の意志で行く気にならなければ意味がないと言われたため見守ることをしたというのを耳にしたことがある。

どのタイミングのことだったかは聞いていないので分からないが、ある時期から不登校について本当に何も言われなくなった。


そうなると自分の場合の生活は、昼間はずっと部屋でゲームをして、夜はオールナイトニッポンを聞いて夜中の3時~5時に寝るという生活が普通になった。

もちろん朝起きる時間は正午くらい。 本当、一生分休んだなと思えるくらい何も考えることのない、何もない時間を過ごすことが出来た。


ただそんな生活も飽きていた頃、姉が持っていたカセットテープを聴く機会があり、今でも忘れない槇原敬之のデビュー曲であるAnswerという曲に衝撃を受けたのを覚えている。

正確な時期は覚えていないが、おそらく1年生の冬だったろう。 自分も音楽をやりたい!こんな曲を作りたいと本気で感じ、親にそのことを話した記憶が残っている。


何もしない子供が自分から何かをしたいと言ったのが嬉しかったのか、すぐにカシオの2~3万するキーボードとやさしい作曲の仕方という本を買ってくれた。 コードの意味も良く分からなかったが、和音を押せばメロディーになるんだということを学び感動したのを覚えている。

その後、毎日キーボードで作曲にチャレンジをしてると、やはり安い楽器では物足りなくなってしまった。 当時はネットなどないため楽器店に行って色々と見ていたら、それが出来るのがシンセサイザーだと知った。

何が良いのかを必死に調査し、小室哲哉がヤマハから出しているEOSというシンセを買うか、デモの音源が良かったSY77が良いのか、これは人生を左右するくらい必死で考えた。

きっと受験勉強などで人生の進路を必死に考えるのと同じレベルだっただろう。


結局SY77を選んだが、値段は20万円する代物のため、さすがに親にねだることはできなかった。 そのためどうしても欲しいから新聞配達をしたいと親に相談し、早朝の配達をすることになった。 この時にお金を稼ぐという大変さや大切さなどを学んだ気がする。

無事に1年間やり通し20万円が貯まったときには3年生となっていた。

安いキーボードで練習し、カセットテープを聞きながら大声で歌を歌い、声変わりする自分の声をつぶすために口にタオルを挟んで大声を出し、のどを壊して回復してを繰り返していったら、地道ではあるが1音ずつ自分の声のキーが上がるのを経験した。

あの当時から比べると、今は1オクターブくらいは高い声で歌えるようになった。 どうでも良い話なのだが、凄く遠い意味ではあるが努力は報われるという話である。


そんなこんなでプロの歌手になろうと作曲などをしていたが、3年生の10月くらい?だったか、サッカー選手の三浦知良がイタリアのセリエAに移籍するというニュースを目撃した。

自分はサッカーが本当に大好きだったので、ケガで断念はしていたが、またチャレンジしたいという思いが沸き上がり、家にあったサッカーボールをもって近所の公園に2年ぶりに蹴りに行った。

そうしたらどうだろう。 痛くてボールに触れることすらできなかった足が、全く痛みもなく普通に蹴れるではないか。 この時の感動は言葉で言い表せないものであった。


その日から毎日、中学校の生徒と会わない夕方の遅い時間から公園に行きサッカーボールを蹴った。 最初は意味もなくただ夢中でやっていたが、毎日していると高校でもチャレンジしてみたいと思うようになった。 そんな風に思えたのが12月の冬休み前だった。


すぐに親にその思いを伝えたらとても喜んでくれ、すぐに学校に相談してくれた。 1年生の5月から学校に行っていなかった自分を受け入れてくれ、高校に受かるか分からないが、とりあえず出席だけは必ずするように言われた。

12月の末に少しと、年が明けてからとりあえず毎日通う生活となった。

もちろん受験シーズン真っただ中なので同じ教室には入れてもらえず、家庭科の被服室が自分の部屋になった。

先生も忙しいため勉強は自習のみ。 当たり前だが勉強をしていないので教科書を見ても意味が分からず断念。 そのため先生と交渉し、とりあえず毎日行きはするが1時間で帰ることで了承を得た。

家では有難いことに両親と姉が勉強を教えてくれた。 中学1年の初歩の初歩、何にも分からないがとりあえず数学だけは教えてもらった。

そんな感じで受験となり、家から新幹線で通わない行けない宮城県で1番頭が悪いだろう高校にチャレンジした。


なかなか面白い学校だったので次の日記できちんと書くが、そんな高校に受験をし、答えを書けていたかは微妙だが、無事に新聞に合格番号が掲載されていた時は本当に嬉しかった。


漠然と自分の人生はどうなるんだろうと思っていたから、またサッカーが出来る、音楽もこのまま人並みにしても許されるという思いがとても嬉しかった。


中学校にほぼ3ヶ月くらいしか行っていないため、自分はある意味小卒であると本気で思っている。 でも劣等感などなく、人が知らない世界を知れて本当に良かったと感じている。

人生は1回きりだから後悔の無いように生きたいというのが自分なので、なかなか理解をしてもらえないだろうが、周りの人に支えてもらうことにより何とか高校入学まで行けた。


人に感謝する気持ちについても書いていこうと思うが、宮城県で1番頭が悪いであろう高校がどういう所かというのは、次にたっぷりと書こうと思います。

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