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第6話 社会人時代(東芝エレベータ編)

更新日:1月24日

大学4年生の時、就職活動中にたまたま母方の祖父に相談したのをきっかけに受けた会社、それが東芝エレベータ株式会社だった。


本当、たまたま祖父に母親が相談したことがきっかけで、祖父から


「とし(私の名前は利夫だから)、東芝エレベータを受けたいのか?」


と言われたので、


「受けれるならお願いしたい」


と電話で話した記憶がある。


正直、サッカーをしに大学に行ったような人間だから、どこかの会社で働きたいなん大層なビジョンも持ち合わせておらず、今思えば良くも悪くもこだわりが無いため、本当どこの会社でも良かった。


何故祖父がこの会社に口利きできるのかすら聞く必要も無いレベルだったので流れに身を任せていたら、母親から東京に面接に行かなきゃいけないと連絡があった。 東京までの旅費も出るということだったので、正直、


「スゲー待遇のいい会社だな」


と思った記憶がある。


そんな話を母親としていた時に、初めて爺ちゃんってどういうコネ持ってるの?

と聞いたら、東芝エレベータの初代社長だということを言われた。

東芝エレベータがどんな会社かも調べてなかったし、それが凄いのかすらも良く分からなかったが、何気に世界の6~7位くらいの会社(日本では3位)なので、その会社を作ったのは凄いなと思う。


ちなみに元々は東芝にいたようで、土光敏夫さんの右腕のような感じだったとのこと。 東芝は元々、世界1位のオーチスという会社のエレベーターをOEMで販売していたが、この分野は間違いなく世界に出れるという土光さんの考えにより、OEMを止めて東芝の立ち上げに祖父が抜擢されたとのことだった。


そんなこんなで何気に超凄いコネを使っていることすら分からず東京まで面接に行くことになった私。

面接で何を話せば良いか等のマニュアルを見るのも好きではなかったため、体一つで勝負に行った私。


まず東京での面接は、前日にホテルに泊まって良いとのことからスタート。 超VIP待遇である。

そして入社試験に行くと、まずは筆記試験があった。

試験用紙を見ると、全く分からない。 今まで勉強というものをしてこなかった罰がまさかここで来るとは。

自己採点であるが、多分0点だったと思う。

そして面接なると、その時の総務のトップだった常務が対応をしてくれた。 凄さも全く分からない無知のため、熱意だけは熱く伝えた。


どうしてこの会社を受けようと思ったか、どういう仕事をしたいか等を聞かれたと思うが、会社を受ける動機が不純なため、祖父が初代社長だったため、それを超えたいとか言った記憶がある。

そして唯一言って良かったなと思ったことは、何をしたいかとか正直分からないが、1番難しい部署に入れてほしいと豪語したのを覚えている。

試験0点の人間が、命知らず世間知らずの発言をしてしまったのを心からお詫びしたいと思う。


そんなこんなで面接も終わり常務から一言、一応今回の入社試験は祖父のこともあるが落ちる可能性もあることは理解してくださいと言われた。 当然と言えば当然である。

そんな感じで東京から戻ったが、これが私と東芝エレベータとの初めての出会いであった。


しばらくして実家だったか祖父に行ったのか分からないが、無事採用の連絡が来たと母親から伝えられた。

後日談であるが、当時の社長は祖父が初代社長をしていたときの新人社員だったそうだ。 本当、祖父の力だけでこの就職活動をすり抜けていった私である。

何から何まで祖父様様である


そんなこんなで入社式=入寮式を行い、約1か月間、機械の勉強、知識の勉強を皆でした。 そうして自分の部署が告げられ、配属となったのはリニューアル営業。 なんだそれって感じである。

ただ、配属されてから分かったことだが、ここから今に続く私の人生の最高の経験がスタートした訳であり最高の修行の始まりでもあった。


リニューアル営業は精鋭部隊が入る部署。

何故かというとエレベータの営業には大きく分けて3つの部署があった。


まずは新設営業(設計事務所やゼネコンなどに営業)

次がメンテナンス営業(設置後のエレベータのメンテナンスやアフターフォローの業務)

そして最後がリニューアル営業である。


この部署に新人で配属されたのは私が初めてであったが、なぜ新人で入るのが初めてだったのかがすぐに分かった。 新設営業は基本的にはカタログベースで仕事が出来る。 メンテナンス営業も日々の継続業務が主であるため流れ作業的なものが多い。 その点リニューアル営業は、設置当時の数十年前に「一生、東芝で面倒を見ます」と言って売っていたエレベーターを、ある日得体のしれない自分のような営業が行き、お宅のエレベーターは地震があったら大変なことになります。部品供給も厳しくなってきており、新しい法律にも合致していないため交換してもらわないといけません」 的なことを、とても綺麗な言葉で言い、説得して交換をしてもらうというとんでもない部署であった。 この時初めて、面接時に豪語した1番難しい部署で働きたいといった自分の発言通りになったのだと震え上がった記憶がある。


ちなみに良かったのは、この部署は当たり前だが新規のエレベーターを売る訳なので、今の建築基準法や消防法などを知らなければいけない。 そして数十年前の古いエレベーターを交換するので、当時の建築基準法や機器も勉強をしないといけない。 そして最後に、お客様と直で交渉を行うためメンテナンスの営業すらしなければいけないという、言うなれば何でもできるスペシャリストでなければいけないという仕事であった。


そんな歴戦の強者が集まる部署に、得体のしれない小物が入ってしまった。 会社も、東大、慶応、早稲田等の早々たる経歴を持った人間も沢山いる中、函館大学という得体のしれない人間が入ってしまい、場違いだったと今考えれば思う。 ただ、良くも悪くも頭が馬鹿なので、当時は本気で社長を目指していたのはここだけの話である。


そんな部署で30歳まで仕事をしていたが、分かったことが1つだけある。 それは馬鹿と頭の良い人の決定的な違いである。

それは何かというと、頭の良い人はミスをしないということだ。 馬鹿は小さなミスを沢山する。 それ以上でもそれ以下でもないということを私は学んだ。

(ちなみに私は相当な馬鹿の部類に入る)


これはあくまで営業的な部分だけをさしているが、頭が良ければ営業がたくさん取れるわけでもないと思う。 確かに分析能力などの優位性はあるかもしれないが、大事な部分はそんなところではないことを今ではわかる。

それを教えてくれたのが、当時のチューター(新入社員や若手社員に対して仕事の内容を指導する役割の人)の佐藤さんであった。 この方は私の人生の師匠であると言っても過言ではない。 ずっと営業でNO1の成績を上げ続けてきた生きた伝説のような人であり、社内でも有名人だった。 そんな人に私はずっと教えを頂くことが出来たのである。

でも、最初は本当に大変だった。 自分でも言葉が出ないくらいミスが出る。 それはそうだろう、皆が一生懸命試験勉強というミスをしてはいけないという訓練をしてきた中で、試験そのものを経験したことが無い、勉強をしたことが無い人間が同じ空間で仕事をするものだから、最初から取り組む姿勢が違うのである。


そしてミスをするたび佐藤さんから、


「浦上!(私の名前)、今日飲みに行くぞ!」


と告げられる。 飲み=反省会なのだが、何回行ったか思い出せないくらい佐藤さんには二人で反省会をしていただいたものだ。

反省会で言われるのは、必ず


「お前はバカだな」

「お前はバカなんだよ」


最後には


「おい、バカ」


と言われる。 これだけ書くと超アウトな上司に見えてしまうが全然違う、佐藤さんには愛がある。 最初は真剣に怒られ、私も毎回本気で反省する。

でも次第に、


「お前は本当にバカだな」


と言いながらニヤニヤしだして、最後には


「お前はバカだ」


と言いながら、


「でもお前はそれでいい」


と言ってくれた。

バカなりにも一生懸命して、ミスも沢山するが、全部そのミスを助けてくれた。 そして営業とは何かを0から傍で教えてくれた。 教えてくれたというか背中で見せてくれた。 そのおかげで佐藤さんに1000回以上バカと言われた男がNO1の成績を出せるようになった。

東大、慶応、早稲田、頭の良い人間は世の中に数えきれないくらいいる。 でも、頭が良いだけが全てではない。

営業の話になってしまうが、営業はお客様が何を思っているのか、何をしたいのか、何を知りたいのか、それをヒアリングする能力が重要である。

そして最も大事なのが、


「その人間は信用に値するのか」


が全てである。 例えバカでも、この人間から買いたいと思われれば物は売れる。 だからと言ってバカのままでいいわけでは無い。 お客様のために命を削ってでもやり切るという思いがきちんと伝わりさえすれば、一緒に最後は感動が出来るのである。 それを私は言葉や知識ではなく、佐藤さんの背中から教わった。

それをするためには当たり前だが、人間性だけでは駄目で、やはり相当な勉強も必要である。 結局勉強も大事になってくるのだが、それは人を幸せにするための知識を持つということであり、ただ単に勉強をするというものとは完全に違う。

そこの中心点に位置する物は、


「思いやりの心」


なのである。 思いやりの心があれば、勉強をしていてもそれは勉強という概念にはならず当たり前にやるべきことという認識で脳は捉えるので、全く苦にならないのである。


脳は本当に馬鹿なので使い方次第で良くも悪くもなるが、上手に使うことで無意識レベルで行動をルーティーン化できるので、これを使わない手は無い。 最近ディープラーニングという言葉がAIにより流行っているが、人間も基本的な考えはロボットと同じである。


話はそれてしまったが、佐藤さんのおかげでその後東芝エレベータを辞めた後の新聞屋でもずっとNO1の営業成績を出せたのは、誰よりもバカだと言われた経験に他ならない。


ちなみに私は31歳の時に東芝エレベータを辞めた。 辞めた理由はプライベートなことがあるため全てを書くことはできないが、書けることだと東芝本体が米国の原発(ウエスチングハウス)で失敗したことにより、社内が完全に壊れてしまったことだろう。


具体的には、私はエレベーター部門しか知らないが、当時は17時になれば電話は完全に切断(鳴っていても取ってはだめ)、総務が見回り帰れと超しつこく煽る、半期ごとの予算はとんでもない上り幅で実現不可能な数値を組まれる。

そんなんだから、従業員たちは社内で愚痴しか言わなくなる。 私はお客様のために仕事をしたい人間なので、お客様のためにできないことが最も苦痛だった。 それと同時に周りの愚痴を聞くことも辛かった。 実際に実行に移そうとまで思ったが、社長まで行って俺に成果報酬で仕事をさせてほしいと懇願しようと本気で思った。

もっともっと仕事が出来るのに、沢山のお客様を東芝ファンにして幸せにできる自信があるのに、残業代を削減したい会社の意向で17時に帰れと言われ、一体どこを向いて仕事をしているんだろうと感じた。


ちなみに一つ、また脱線になるが、バカな自分が何故自信を持つことが出来たかになるが、佐藤さんのおかげで自分のスタイルを確立できたことが最も重要だが、そのスタイルとは何かと気になるかと思う。

それは上記にも書いたが、思いやりに他ならない。 その例として、リニューアル営業は古くなったエレベーターの所有者に突然営業を仕掛ける。 最初の窓口は管理会社経由だったりするが、話を聞きたいとなればマンションの理事会に行き説明をする。 今まで高いメンテナンス料を払っていたのに得体のしれないリニューアル営業という人間が突然現れ、お宅のエレベーターはすでに20年以上を経過しており地震対策も施されておらず、省エネでもなく、安全対策もままならない状態だ。 さらに部品供給も厳しいため、500万や1000万かかるが交換をして欲しい(実際には、交換しないと知りませんよという無責任な発言と取られかねない内容)と要請を行うのである。


リニューアル営業になりたての頃は、やはり


「突然そんなこと言われても」


とか、


「いきなり来てふざけるな」


と怒られるようなこともあった。 ただ、心から本気で思いやりの精神でやることを学んでから、お客さんからプレゼンの後に


「よく教えてくれた、ありがとう」


と拍手をもらうことが度々起こった。 こちらは押し売りに行っているのに、なぜか感謝されるという不思議な矛盾、当たり前だが本気で押し売りなどはしていないが、事実として交換して欲しいというお願いをしに行っている以上押し売りに他ならないのであるが、人と人との思いで繋がろうとすれば、きちんと通じるという体験をした。 こういう事から、もっとたくさんの人を幸せにしたい、もっと仕事がしたいという思いにより社長に直談判しに行こうと思っていた。

ただ、どうしてもできなかった理由は、尊敬する東京時代からお世話になっている上司がいたから、その人を飛び越えていくと迷惑がかかるという思いで結局断念し、悶々として最後には会社を辞めるという結論に至ったというのが1つの理由でもある。


実際、辞めるときには沢山の人に止められた。 祖父のこともあるし、社長を目指していたため、逃げるようで多少辛い思いはあったが、正直、エレベーターだけが人を幸せにするツールでは無いと分かってしまった。 お客様のことを幸せにするためなら、別にどんなものを売ったとしても幸せにできる。 むしろ、その時その時に変化できなければ存在価値など無いとさえ思っている。 その考えは今でも心の中心にあるが、生きるということはきっとそういう事だろう。


辞めたときは九州支社にいたが、東京から九州支社に転勤をしたときに総務の人から


「東京からエースが来たんだから1億円は売るんでしょうね」


とある意味、挑発的な感じに受け取れるようなことを言われた。 九州の営業が1人半期3000万売れれば良いという市場環境であったため、1億円なんて出来ないと思われていたが、言われたことが悔しくて達成した。

もちろんエレベーターのリニューアルなんて営業をしてすぐにやりましょうとなる訳が無いので、種まきをしてきてくれた沢山の人たちのお陰が全てではあるが、半年で約100件の提案をお客様にできたことが自分としてはやり切った感があった。


前の日記にも書いたが、人間なんてちっぽけな存在だ。 自分がいくら一生懸命やろうと、別に何者にもならない。 視点をどこに置くかで物事の見方が変わるが、例えば宇宙的な考えで行けば、今までの歴史や時間の中で、自分が一生懸命エレベーターを売ろうが、世の中のために良いことをしようが別に何にもならない。


もっと別の視点で見れば、宇宙を人間の体として考えると、自分などミクロのミクロな存在であり、体の中を循環はしているかもしれないが、役目を果たせば消滅しまた復活する一つの細胞に他ならない。 その中には沢山の細胞があって、良い細胞もあればガンのような悪さをする細胞も有ったりする。 それも含めて身体という概念で宇宙を考えると、自分はガンなどではなく良い細胞でいたいと思う。


自分という枠で考えても、色々な物事を考えている自分という意識の中心は身体のどの部分に存在しているのだろうと考えている。 脳も細胞の集まりである。 脳という細胞の塊に心や思考があるのか、それともミクロの細胞のどれかに自分が存在しているのか、はたまたロボットのようにこの身体は借り物のようになっており、どこかのタイミングで魂的なものがこの身体にプログラミングされたのかなど考えると、自分は何をしに生まれてきたのだろうと思う。

ここまで考えると、自分がしている仕事などはどうでも良いことであり、エレベーター自体もどうでも良いことである。


ただ何となくわかることが有り、自分は見えないレベルで皆と繋がっている可能性があると言うことだ。 そして自分が行うことが世界に何かしらの影響を与えているのは否定できないと思っている。 巷ではバタフライエフェクトと言うが、これは間違いなくあると私は思っている。

そして見えない何かで人との繋がりがあるというのは実際に何度も体験しているので、事実有ると言うのを皆にも知って欲しいと感じている。


ちなみに話は戻るが、本当に大事なことって、人のことを思いやり、人生の最後に沢山の人を幸せに出来て良かったと心から思える


「他人の幸せに視点を持った自己満足」


の気持ちで終了出来たら、この壮大なゲームはクリアなのだろう。

世の中の大半の人間は、自分自分となっている。 自分自身の本質的なことすら何も分からないくせに、自分が世界の中心になっている。 確かに思考の中では中心と言えばそうかもしれないが、人がいて初めて自分という存在を認知できるのに、人のことは知らないという矛盾の中で生きている。


お金という概念を無くして世の中を良いものにしたい。 自分自分という考えを捨てて、皆が平和に生きて行けるようにしたい。

特に子供達には夢と希望、未来があるので、その子たちのためにこの命を使いたい。

東芝エレベータ株式会社の初代社長の孫というだけで、凄いね、なんていう人がたくさんいるが、私の過去も分からない、私という人間のことも分からない、私が作った肩書でもない物に対し凄いねと感じ、私がそれでマウントをとろうと思えば取れてしまう悲しい世界。


人間が生きている意味、お金儲けだけが全てではないということを、今は不動産屋の自分ですが、今後も発信とチャレンジをしていこうと思います。

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