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第2話(生い立ちについて)

更新日:4月3日


生まれ:宮城県富谷市

小学校:富ヶ丘小学校

中学校:日吉台中学校

高校:大崎中央高等学校

大学:函館大学


社会人:東芝エレベータ株式会社 → 佐賀新聞唐津東部販売店のオーナー(その間にアクサ生命の代理店や複合機のレンタル業、リフォーム業も兼業) → 福岡市の大濠公園駅の側で不動産屋を経営 話すと長くなりますが、今回は小学校時代だけ書くことにします。


小学校時代は勉強というものに全く興味を持たない子供であった。

運動神経はそれなりに良く、サッカーをやっても人より上手く、ゴムボールの野球では左右両方で打てるバッターとして学年でも1,2を争う器用さを発揮していた。


特技はテレビゲーム。

好き過ぎるあまり、壊れたファミコンを分解して修理を試みる変態であった。

そのため、どうやったら好きなゲームをずっとできるかを考え、いかに上手に学校を休めるのかを追求した。

その結果、体温計を摩擦の力で温度を上げるという特技を身に着け、具合の悪い演技力まで兼ね備えた子供であった。 (この技はテクニックが必要であり、火起こしの原理を利用するのだが、油断して摩擦しすぎると40度を超えてしまうため、最後は息でフーフーして冷ますという原始的でありつつ高度な技術を用いていた)


今でこそゲームをすることを認知される時代になったが、当時は1日1時間などの考えが浸透しており、その壁をどうやって乗り越えようかと常に親と心理戦を繰り返していた。


そういうちょっと変わった子であったためか、すごく可愛がってくれる担任と、ある種いじめ的な感じで接してくる担任がいた。 先生に濡れ衣を着せられ怒られることも幾度かあり、怒りと悲しみのあまり学校を脱走し警察沙汰になったことも2度ほどあった。


心に深い傷を負ったエピソードを1つ披露するが、小学5年生の時に林間学校に1泊するというイベントがあった。 夜お風呂に入って下着を着ようとしたとき、なぜか先ほどまで履いていたパンツが無いではないか。 どこを探して見つからず、でも新しい下着は履いているので、仕方ないと諦めてそのまま部屋に戻りそのまま記憶から消えてしまった。 このことが、その後、一生忘れない傷を残すきっかけとなった。


しばらく経ち学校で授業をしていると、隣のクラスの先生が旅行の時の忘れ物を大きな段ボールで回覧してきた。 そこには沢山の忘れ物があり、「これは誰のかな?」なんてやっていて、自分も何ごともなく先生の行為を見ていたが、ある瞬間、先生の顔色が変わった。

出てきたものを汚いものを扱うようにつまみ、パンツなんて忘れたのは誰~!

なんて言った。 その時も頭からすっかり忘れていたため何も思わなかったが、先生がその物をジロジロ観察していたら、パンツに名前が書いてあるではないか?!


「浦上君!パンツ忘れてるよ!」

これが通称、パンツ事件である。

先生も先生なら、親も何で名前書いたんだよという思いだが笑、こればかりは仕方がない。

今思えば、残念だがこの先生は人の気持ちが分からない教師だったのだろう。

先生になってはいけない人間だと思う。

ちなみにクラスは超大爆笑。 言われた私は一生忘れない心の傷を負った。 そして私はパンツを受け取ったが、クラスの奴らからめちゃくちゃ馬鹿にされた。 そして、それが悔しくて顔を伏せて泣いてしまった。

小5の男が皆の前で泣くこの屈辱。


休み時間になり、自分はそのまま学校を脱走した。 ゆく当てもなくただひたすら遠くの高台に向かっていた。 しばらく時間が経ち授業も終わっただろう頃、小学校の同じクラスの人間が私を探しているのを遠目で確認できた。

浦上君? 浦上君? 友達が大きな声で探し回っているのを見た。 私は高台のバレない場所に隠れていたのだが、探しに来てくれた人がいたのは少しだけ心の救いだった。

ただ、帰るタイミングも失い夜までずっと隠れていた。

そろそろおなかも減ったなと思い、このまま隠れていてもしょうがないからと、おそらく21時くらいだろうと思うが帰ることに決めた。 警察などにも相談していたようだが、家に帰ると母親が泣きながら出迎えてくれた。 そして理由を話すと余計に泣いた。 そして自分もまた泣いた。


どうして人の気持ちを理解できない人間が教師をしているのかな。 今になれば分かるが、学校って子供から見たら世界の全部だと思う。 そこにいる友達が世界の全てなんだ。 そこで馬鹿にされたりしたら、そりゃ自殺する人だっているだろうに。 そういう当たり前のことを分からない大人が今でも沢山いると思うと、本当に世界ってどうしようもないなと感じてしまう。

とりあえず私が見つかったという報告が学校に行き、翌日だったか教師が謝りに来た。

こんなことも有り私は学校嫌いに拍車がかかってしまった。


他にもクラスの誰が言ったか知らないが、自分が休んでいるときに家でゲームをしていたと嘘を言った同級生がおり、濡れ衣なのにそのことを教師から問い詰められ、ずっと否定しているのになぜか超強烈なビンタを食らわされ脱走したというエピソードもある。

まぁ、何かしら自分にも問題があったのかもしれないが、それはまたいつか書こうと思う。


とにかく、そんな変わった小学時代であったが、唯一良かったと思えることは、何不自由なく両親に守ってもらったことだろう。 学校を脱走した時もそうだが、必ず自分を守ってくれるポジションでいてくれたため、今思えばそういう部分から自分がその後の人生でグレずに生きることが出来たのだろうと推測する。


別に悪いことをしたいとは思わないが、どこかでこれをしたら親が悲しむなという判断基準がどこかにあるため、どうせ人生1回きりなら、とことん良いことをしていこうと心に誓い生きている感はある。


ちなみに小学校時代は、当たり前だが不登校気味だったので成績はめちゃくちゃ悪かった。 勉強のやり方自体が良く分かっていなかったため、そういう理由で勉強が好きではなかったのだろうと今思えば推論出来る。

でも本当、勉強ができる出来ないというそんなことどうでも良くて、大人になって100億も持とうが無かろうが、頭が良かろうが悪かろうが大した問題ではないのだと思っている。


人間は本当に馬鹿な生き物なので、自分基準で物事を判断する傾向が強い。

特に、人に優劣を付けた時にそのダメさを発揮するが、自分自身の立ち位置をどこに置くかで考え方は変わってくる。


この時代の小学校は登校拒否など許されるわけもなく、その中で生きて行けなければ死ぬしかないくらいの感覚が昔はあった。

学校なんてものは狭い世界だし本当の世界は広いんだ、無限の可能性があるんだと先生が教えてくれたらよいのだが、先生自体が閉鎖的な世界で生きているから教えることは難しい。

そんな教育を植え付けられた人間は大人になっても自分の考えに勝手な制限をかけ、この会社を辞めたら何も特技が無いため生きていけないと自分で思い込み、自分の可能性を勝手に閉じている。

そして、目指すものは何とか世の中の平均以上の年収を求めて必死にあげき、会社にこき使われサービス残業などをし、わずかばかりのお金を手に入れようとする。

基準は全て、周りの人と比較をしての平均を超える自分のポジションだ。


人生なんて本当あっという間に終わるのに、会社の愚痴を言いながら大事な命を使っている人たちを見ると、全てはお金の概念が人の心を破壊していくのだろうと思っている。


もっと自由な選択肢あふれる教育制度があれば、大人になってからどんなに生きやすくなるだろうか。

お金や生活水準が平均以上でないと安心できないという概念から抜け出せるように、個々人が好きなことを行い、世の中のために行動するだけで良いというシンプルな教育をしてくれたらどんなに将来が楽になるだろうか。


小さなそれが世界の中心だったあの頃、別に学校なんてちっぽけな世界に過ぎないという事まで分かってはいなかったが、今思えば無意識のレベルで皆と同じ普通という生き方を望んでいなかったのだろう。


スポーツが好きで、ゲームが好きで、低学年の時はガキ大将的な感じで、その後は学校嫌いになり、勉強もせず適当に楽しいことを探しながら生きていた。

そんな何の不安もない幸せな時間が小学校時代の思い出。

これを思い出せることって、自分って本当に幸せだなと思える。

人生って、生きることって修行だと思っているので、たまたま自分はこういう記憶を残せてもらえて両親に感謝だなと思う。


ただ、そんな当たり前にあるべきことが持てない子供たちが世の中にはたくさんいる。

自分はそんな人のために生きていきたいと思っている。

世界を救おうなんてことは思っていないが、もしいつか一人でも多くの子供たちの幸せを作れることができたら、自分のような普通の生き方をして来なかった子が、持っている能力を発揮して世の中の役に立つことが出来るような姿を見ることが出来たら本当に良いなと思う。


そんなこんなで、深夜2時過ぎに思い出に浸る私であった。

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